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今治の歴史 海事編

 海事の歴史キーワードが「塩」?と思われるかもしれませんが、これは今治の海に関わる歴史、さらには文化を語る上で欠かせないものです。

 12世紀初頭の平安時代、瀬戸内の島々では塩づくりが盛んに行われていました。現在でも大三島には製塩工場があり、今治の産物として国内に知られていますよね。この頃、島々でつくられた塩を各地へ運ぶため、海運が発達しました。

 時代は進み江戸時代になると、困窮していた松山藩の財政を潤した塩田がありました。どの地域だと思いますか?今でも海運の町として知られる波止浜・波方地区です。安価で良質の波止浜の塩は日本各地で評判を得て、各地から入港する千石船(塩買船)で賑わい、「伊予の小長崎」と呼ばれる有名な港町になったのです。交易が盛んになってくると、船の修理や建造が必要になってきます。すると船大工が各地に育つようになり、同時に防波堤の工事などの港湾整備も行われてきたのです。今でもこの地域は、多くの造船所や海運会社が集まる今治屈指の海のまちですね。

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近見山から波止浜方面を臨む(2011年1月撮影)

水軍

 「水軍」。この言葉を聞いて何が思い浮かびましたか?海賊、海、船…。同じ質問を今治在住の人にたずねると答えは少し違うかもしれません。きっと、村上、鍋、博物館、レースなどなど、地元の人なら納得、そうでなければ「?」となる答えがあがってくるでしょう。いずれも、かつて瀬戸内海で海の支配者といわれた村上水軍、来島海峡の新鮮な魚介を使った豪快な郷土料理の水軍鍋、宮窪町にある村上水軍博物館、和船を使用した水軍レース大会、など今治ならではのものです。

 南北朝時代から戦国時代に、来島海峡一円に勢力を誇った能島・来島村上水軍は、海の武士として、織田信長や毛利元就にも一目置かれるほどの勢力がありました。

 関ヶ原の合戦で勢力を失いますが、その優れた航海技術は、その後もさまざまな航海で重用され、地域交流により情報や文化を伝えます。今治人の進取の気質やものづくりは、この頃に形成されたといわれています。

(参考)村上水軍博物館ホームページ
(参考)水軍レース大会

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魚介たっぷりの郷土料理 「水軍鍋」

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甲冑や小袖の着付体験 「村上水軍博物館」

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村上水軍の復元船小早船 「水軍レース」

けんど

「けんどけんどというけんど 拝志のけんどはよいけんど」

 これは今治に残る囃子(はやし)言葉で、拝志地区でのけんどづくりが有名だったことを伝えています。(※けんど:葛などで編んだふるいの一種。農具。)
 江戸時代、けんどなどの農具が各地で評判を呼び、近隣の瀬戸内海沿岸地域に歩いて行商に出ていました。しかし歩く方法だけだと、販売の数にも限りがあります。そこで思いついたのが、けんどを舟にのせて売り歩く方法です。この舟は「けんど舟」と呼ばれ、大量販売を可能にしました。

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けんど

波止浜(はしはま)に発達した造船の歴史(潮待ち)

 今治市の造船業発展の背景には、波穏やかな天然の良港「波止浜(はしはま)湾」で潮待ち(汐待ち)する船舶修繕から発達したといわれています。当時の船の航行は潮や風に大きく影響を受けたため、日本海や瀬戸内海の各地には潮待ち、風待ちの港が数多くありました。

 世界に名高い「造船長屋」と称され造船所が7社立ち並ぶ「波止浜湾」も潮待ち港のひとつでした。筥潟(はこがた)湾とも呼ばれるこの港には、来島海峡の急潮を航行する船が潮待ちで数多く立ち寄りました。その間に修理を行ったことから、船舶修繕を中心に今治市の造船業が発展したといわれています。

 また、来島海峡は瀬戸内海でも有数の漁場であり、漁業が発達したことに加えて、操船技術の蓄積により海運業が発達したことを背景に、近代的造船業の発展を遂げています。

菊間瓦と海運業の発展

「瓦船」「土船(どろぶね)」「炭灰船(すばいせん)」「くど船」

 伝統のある技法、技術によって作られた、格調高い美しさで、全国でも高い評価を得ている菊間瓦。菊間瓦の歴史は古く、鎌倉時代に製造がはじめられたと伝えられています。また、江戸時代に松山藩から製造販売を公認され、持ち株制度となったため「御用瓦」としても知られています。

 瓦の原土の粘土は、江戸時代後半頃には波方、森上、馬刀潟、大三島野々江などから運ばれていました。また、瓦を焼きあげるときに出る割木や松葉の燃えカスは「炭灰(すばい)」と呼ばれ、タドンや豆炭の原料となりました。幕末期、波方の森上村で「くど」の生産が始まりました。くどとは、土でできた竈(かまど)のことで、ほかに「こたつ」や水を溜める「あいがめ」、餅を焼く「こうら」などがつくられ、製品は「くど船」と呼ばれる小舟に積まれて瀬戸内海沿岸で売買されました。

 明治・大正・昭和時代初期には、瓦を運ぶ「瓦船」、土を運ぶ「土船(泥船)」、炭灰を運ぶ「炭灰船(すばいせん)」、くどを運ぶ「くど船」などが活躍し、この地域の海運業が盛んになりました。

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土船から土を運ぶ様子(昭和20~30年頃) 写真提供:かわら館

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菊間港に停泊する瓦船  写真提供:かわら館

「蟹工船」と八木亀三郎氏

 今治市波止浜(はしはま)出身の八木亀三郎氏は、製塩業から水産業へと事業を展開した商人です。帆船に波止浜の製塩を積んでロシアで交易し、サケやタラを積んで帰っていました。現地では、サケの捕り方や売り方が未熟で取引も安価であることから、サケ漁を研究して大成功をおさめます。大正13年には函館に八木本店を設立し、業界初となる3千トン級の「蟹工船」樺太丸を建造し蟹操業に乗り出しました。この船は、40人が作業できる缶詰工場を備えた大型母船で、わが国の近代母船式蟹漁業の先駆けとなりました。故郷の発展を望む亀三郎氏の考えにより保有していた北洋漁業の大型船は今治の波止浜船渠で修理されました。こうしたロシアとの交流により、船大工や蟹工船の船員としてロシアに渡る波止浜の人もいたようです。蟹操業は、活況を呈し巨万の利益を得ることができました。

 その後、愛媛第一の多額納税者になり、今治商業銀行の頭取や波止浜町長などの要職に就きました。莫大な財の一部は、立派な家の建設にあてられ、現在も波止浜に郷土の誇る近代和風建築として残っており当時の姿をしのばせています。

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旧八木邸

クレジットの元祖-桜井の伊予商人と椀船(わんぶね)

 「伊予商人」とは、今治市、特に桜井を中心とした商人のことをいいます。大規模な行商、仕入れは「椀船」と呼ばれる回船を出すようになってからはじまりました。「椀船」とは、船内に「椀屋さん」と親しまれる桜井漆器商人が乗っていたことからそう呼ばれるようになりました。

 今治市桜井の里言葉に「春は唐津、秋は紀州」とあるように、春は、佐賀県伊万里や唐津の陶器を大阪方面に行商し、帰りの舟に紀伊国黒江(海南市)の漆器を積み込んで、秋に九州方面へ向け、立ち寄った港で行商を行いました。明治から大正にかけての行商は、先発隊が広告宣伝を行い、集会場などで見本を陳列して注文を取り、その後、商品の配達を行う際に代金を集める当時としては画期的な「分業方式」が採用されていました。

 この集金は「月賦方式」で行われ現在のクレジット販売の先駆けとなりました。この方法は、漆器以外の商品にも応用され、東京や大阪で洋服や家具、貴金属などの高額商品の月賦販売を始め、それが後の月賦百貨店へと変化しています。昭和55年の調査では、全国566名のうち約90%が今治近郊出身の伊予商人であったといわれています。

 昭和初期に椀船行商は姿を消しましたが、伊予商人が始めた月賦販売は、消費者生活を大幅に向上させ、現在の「クレジット」のビジネスモデルとなって、産業界の発展に多大な貢献を果たしています。

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桜井漆器

 江戸末期から明治初期、港湾整備と夜間航行のための灯台がいくつも建設されました。関前の大下島灯台(明治35年)や来島中磯灯台(明治35年)などです。

 その後、明治30年頃になると定期航路が結ばれ、大正11年には今治港は四国初の開港場に指定されました。こうして貿易港として今日の繁栄につながっているのです。

 昭和になり、太平洋戦争終結後も、海運需要によって今治港の整備が進められました。現在では、韓国との定期コンテナ航路が結ばれ活気を見せています。

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