トップページ商工振興課桜井漆器のルーツを追って椀舟行商時代のエピソード

椀舟行商時代のエピソード

椀舟行商時代のエピソード

椀舟行商時代、伊予商人(桜井の行商人)たちは、「紀州大納言家のご産物の披露に参上しました。」と言って漆器を売り歩いたそうです。そして桜井漆器の製造が確立してからも、絶対的な生産量を誇る黒江は、大切な仕入れ先でした。

また、その最盛期には、伊予商人の動向が黒江の景気を左右するとまで言われ、黒江塗り(紀州漆器)の発展に大きく貢献したそうです。

伊予問屋を営んでいた漆器店 それゆえ、伊予商人は大切な顧客として扱われ、伊予商人を宿泊させて取り引きする、「伊予問屋」と称するものが何軒も生まれました。そこには、常時数人の宿泊者がおり、多い時には50人もいたと伝えられています。

やがて黒江と九州方面との直接取り引きの途が開かれるにつれて、伊予商人との取り引きも衰退していき、昭和17年を最後に伊予問屋も、その影を絶ったということです。

写真1
黒江の入り江

写真2
伊予問屋を営んでいた漆器店

桜井漆器協同組合理事長松木正人さんに、伝え聞いた椀舟行商時代のエピソードなどを語っていただきました。

特産品もない、商業の土壌もないこの地で、なぜ椀舟行商が発展していったのでしょう?

行商の主力となった売り子は、ほとんどが桜井周辺の貧しい農民たちでした。

ですから、椀舟行商が発展した最大の要因は、彼らの貧しさからの解放。その切実な願いだったと思います。

それから、行商の形態でしょう。椀舟には親方・売り子(5~6人)・船頭が乗りますが、売り子は自由にその組織に入れました。そして給料制ではなく、どれだけ多く、どれだけ高く売れたかで収入が決まります。ですから、売り子も必死で販売したことでしょうね。

九州など行商地の生活風土もその要因でしょう。祝い事など、客を招く時は必ず会席膳料理が出されます。そして、その場に漆器を並べ、その収納蔵を建てることが成功者としての誇りだったからではないでしょうか。

写真3
(左)肥後降一条有無日記 (右)冬下り和城日記

どんなエピソードを聞いていますか?

行商でいちばんつらいのは売れないこと。それで売り子は、いろんな方法を考えたようですよ。

たとえば、行商地が農繁期であれば、1日中農作業を手伝う。そして夕方になると商談を始めるといった具合です。中には、その働きぶりを評価されて婿養子になり、そのまま住み着いた人もいたようです。

また、道端で七輪(炭で火を起こす道具)を置いて肉を焼く、すると何事かと人だかりがする、そして漆器の話をする、といった話を聞いています。

それから、当時は30石積み程度の帆船で、潮まかせの風まかせ。あちらこちらと流されて、予定外の地で2・3泊した、という記録も残っています。

伊予問屋と紀州漆器 桜井漆器のルーツ、黒江(海南市)の街で

70歳になってもまだ夢をもっとるんだ、それはね漆器の里づくりだよ

そう言って、子供のように笑いかけてくれたのが和歌山県漆器商工業協同組合理事長中村哲三さんでした。

人口約5万人、漆器従事者300名近くを抱える海南市。木造の家屋が建ち並び、400年の伝統が静かに息づく漆器の街を歩きながら、紀州漆器の過去、現在、そして未来を熱っぽく語る中村さん。

ああ、この人は心からこの街を愛しているんだな・・・

桜井漆器もそうじゃないかね。ここだって同じだよ。生活様式が変わり、プラスチック・ガラス製品が主流になってからは、衰退し続けとるよ。だがね、それも時代の流れなんだ。

それじゃあ、これからの紀州漆器は?

変わらなきゃいかん。時代の流れを読んで、敏感に反応していかなきゃ。

たとえば?

新しい製品作りと新しい分野への進出じゃよ。たとえば建築業界への進出とかね。厳しい時代だからこそ、開拓の精神が必要なんじゃないかね?その精神は君たちの先人(伊予商人)にこそあったんだろう?

弁舌さわやかに語りながら、しかし、非常に重い言葉でした。

伊予商人の墓  そしてたどり着いたのが、伊予商人のお墓でした。交通の不便な時代に、何とかせいこうしようと幾多の苦難を乗り越えながら、志半ばに逝った桜井の人たち。・・・合掌。

こうしてわずかながらも、椀舟行商にかけた伊予商人の進取の気質に触れることができました。

写真4
伊予商人の墓